スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
このエントリーをはてなブックマークに追加

2015年に最も期待するゲーム関連動画は「ニャニャニャ!ネコマリオタイム」

ニャオース! に注目

 Wii Uやニンテンドー3DSのゲームを紹介する番組「ニャニャニャ!ネコマリオタイム」が面白いというのは、以前もどこかで書いたとおりなのだが、やはりこれはなかなか見所がある。


 この番組は、「ネコマリオ」と「ネコピーチ」が人形劇という形式でゲームを紹介したり、あるいは任天堂のゲームにおける攻略のコツ、そしてクイズなどを出題するというようなものである。低年齢層向けなのは間違いないだろうが、単にそうだと言い切れないのが任天堂らしさというべきか。

2015_nekomario.jpg

 当然ながら、ゲームに詳しい人にとっては既に知っている情報が多いものの、それをうまく噛み砕いているのが長所だろう。10分程度の映像に簡潔にまとめつつ、司会は有名で受け入れやすいキャラクターであり、それでいて情報番組としても成り立っている……と。

 世にゲーム情報は山ほどあれど、これほど受け入れやすいものはなかなかないのではなかろうか。膨大な情報も、読まれねば単なる無意味な羅列である。情報が溢れる状況として、その姿勢に魅力を感じる。
このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーサイト

ウソの体験を真実と思い込めそうなほど臨場感があるらしい『Use of Force』に興味津々

ゲームと現実の間には大きな隔たりがある

 ゲームの中で大火災が起こっているシーンは何度か見たことがある。しかし、自宅で小火を見た時の緊張にすらかなわない。たとえば、『バイオショック インフィニット』のDLCでは拷問されることになるが、映画『シティ・オブ・ゴッド』のほうがおぞましかった。そしておそらく、ゲームの人殺しや事故も現実とは大きな差があるのだろう。

 無論、ゲームはあえて恐ろしい表現を避けている可能性もあるし、そもそも現実を完全に再現する必要がないのかもしれない。僕が家庭用機ばかり遊んでいるから、表現がぬるいこともあろう。そして、ゲームのルール上で生み出される興奮が存在しており、それはそれで魅力だ。また、安全圏から危険な追体験ができるのも、ゲームにおける重要な価値のひとつである。

 ファミ通.comの記事で、『Use of Force』というインディーゲームを紹介する記事があった。とても興味がそそられる作品である。

UseOfForce_01.jpg

○ 目の前で男が殴られ続けている。できるのは告発ビデオを撮ることだけ――暴行死事件をVRで“目撃”する問題作『Use of Force』【Indiecade 2014】 - ファミ通.com
http://www.famitsu.com/news/201410/11063432.html

 このゲームは、カルフォルニア州で起こった実際の事件を題材にした作品である。2010年5月に、国境警備隊が無抵抗のアナスタシオ・ヘルナンデス=ロハス氏を暴行し殺しており、現場に居合わせていた人がその様子を携帯電話で撮影していたのだという。その傍観者の役割を、ヘッドマウントディスプレイで追体験するのがこのゲームなわけだ。

 ゲーム内の死というものは安くなりがちだが、本作ではそれがとても恐ろしく見えるらしい。この記事では「もし作為的に誇張されたり、まったくの嘘の体験を作られたらと考えると、恐ろしくもある」と書かれているほど、つまり虚構であったとしても現実と錯覚しかねないほどの没入感があるということなのだろう。

 ゲームと現実の隔たりがあっさり埋まるものであるならば、ぜひ味わってみたいものだ。
このエントリーをはてなブックマークに追加

経済学をわかりやすく噛み砕くテレビ番組『オイコノミア』が面白いよ

たまには雑記でも書いておく

 テレビ番組『オイコノミア』を見てゲームのことを考えた。“娯楽の経済学”と題された回が放送されており、音楽や漫才、そして遊園地といった娯楽全般の経済についてわかりやすく説明していたのである。

 その中で、昨今の音楽業界やお笑い業界では、CDなどのソフトよりもライブ(生演奏・舞台)のほうが人気を得ているという話があった。CDはいくらでもコピーが可能なわけで、共有が可能になり更に価値が低くなると同時に、ライブのようなその場限りのものの価値が相対的に上がっていったというような話だったと記憶している。

 この話を聞いて、ゲーム実況のことを思い浮かべた。ゲームを紹介する方法には文章や動画などいろいろあるが、昨今は生放送とか実況配信のライブが人気を掴みつつある。

 ゲームレビューなどを読んだことのある人にはわかるだろうが、作品について書く文章などはその文章自体がまた作品にもなりうる。となればゲームにまつわる文章・動画も娯楽であり、より価値を生み出す(コピーしづらいものにする)には、文章より静止画、静止画よりも動画、そして動画よりも生放送とか実況配信のライブになるわけだ。

 また、実況においては出演者自体に大きな価値がつくこともあるし、それが更に生放送の価値を産んだりと有利な点も多い。だからこそ、皆こぞって生放送などの可能性を探っているのだろう。

 ……ということをぼんやりと考えていたのだが、こうなるとだらだら文章を書いているだけの僕はより価値が低くなるわけだ。そして、こういう話を聞いたから僕がゲーム・ストリーマーを目指すなどということもない。となると、ただひたすらに価値が下がり続けるわけだ。

 そして、悲惨であろう先行きをゲームでごまかす日々である。
このエントリーをはてなブックマークに追加

ゲーム実況配信は人気者だけのものでなく、自分の周りにある小さなコミュニケーション・ツールとしても使えそうかも

いざ自分でゲーム実況配信をやってわかったことがひとつ

 さしづめ、ゲーム実況配信がネット時代の井戸端会議になりつつあるかもという話である。

header_logo.png

 先日から、Twitchでゲームの実況配信をはじめた。これは“ゲームをやりつつその映像を流し、かつ喋っている様子をネット配信する”というものである。僕は今まで配信に興味がなかったのだが、いざやってみるとなかなか使えるものだと気づいた。

 それまでゲーム実況配信というものは、面白いことを言える人たち、大きなイベント、あるいはゲームの広告のためにあるのだと思っていた。有名なゲーム実況配信というのはそれらに近いものが目立つため、僕と似たような印象を抱いている人もいることだろう。

 ただ、昨今はXbox OneやPlayStation 4にも配信機能がついており、単なる一介のゲームプレイヤーでも実況配信ができるような時代になりつつある。ではそんな小さな人たちにとって、ゲーム実況配信は有効活用できるのか。ずっとそう思っていた。

形は違えど、ゲームの周りに集う行為なのだ

twitch_haishin.jpg

 それに対するひとつの答えが、ゲーム実況配信をコミュニケーション・ツールとして使うということだ。僕は喋りもうまくないし、面白いことは何ひとつ言えないし、そもそも目立ちたいという気持ちもないし、やっている配信も人気があるとは言い難い。だが、ゲーム実況配信をしていると、友人・知人が軽い気持ちで様子を伺ってくれたり、コメントをくれるのだ。

 実況配信せずにゲームをやっていた場合、僕はほとんどひとりで遊んでいただろうし、仮にコミュニケーションができたとしても数少ないフレンドくらいとだろう。しかし、遊んでいる様子を周囲に見せることによって、同じゲームを遊んでいる人とも、遊んでいない人とも、たまたま配信を見た人とも、交流を持てるのである。

 無論、ブログやTwitterにスクリーンショットを載せ、それに関する話題で盛り上がって交流を持つこともできる。が、やはりゲームは動画で見たほうが理解しやすく、それに関する話も、文章でよりも口で話したほうが受け入れやすいだろう。

 つまり、そこまで人が集まらないようなゲーム実況配信だとしても、それがコミュニケーションの道具、あるいは場として使えそうだということだ。何人かでもゲーム画面を見て同じ状況を共有し、あれこれ雑談をしたり、そこから一緒に遊ぶようになったり……。そういう可能性があるからこそ、ゲーム機に配信機能がつくのだろう。今更ながら、それに気づいたのだ。

 今まで自分はゲーム実況配信とは無縁だと思っていたが、そうでもなかった。おそらくそれも、ゲームの面白さを書いたり人に話したりするような行為の延長線上にあったのだ。
このエントリーをはてなブックマークに追加

ゲームレビューにおいて、「低い点数は信頼できる」のはどうして?

信頼などと軽々しく言わないほうがいいのではとも思う

 僕はまったくそんなことを思っていないのだが、そういう話を散見する。なぜ、ゲームレビューにおいて「低い点数は信頼できる」などと言えるのか?

 その対象は「ファミ通」から海外レビュー(おそらく、メタスコアのことだと思うが)という超曖昧な存在までに言われており、誰が言ったかというよりは、使いやすい言葉として存在しているのだろう。

 これはたいてい根拠のない話なので、僕もテキトウに答えてしまおう。これは単に“評価が高い作品は、皆が遊ぶので検証されやすい”からではないかと思われる。要は、低評価の作品は「低評価でも問題ないから低評価のままでいい」のではないか。

そもそもレビューとは信頼するものなのか?

reviewHUU2.jpg
XBLA『Yaris』はクソ扱いだが、僕は割と楽しんだ作品だ

 さて、まず単純に考えてみよう。なぜゲームレビューにおいて点数評価が必要で、高い点数が望まれ、そしてそれを「信頼できない」などと言えてしまうのか。
  1. ゲームは当たり外れがあるので、評価は高いほうが好ましい。
  2. 中でも点数評価はわかりやすいので、点数評価の高い作品を買う人がいる。
  3. すると、時には嗜好に合わないことがあり、それを「信頼できない」と解釈されてしまう。
 ……という流れが本当にあるかどうかは難しいが、信頼できないと解釈する場合はこのケースが妥当なのだろう。さておき、「評価が高いゲームを買うと、それが外れることもある」のだ。

 嗜好というものは千差万別であり、「低評価だけど面白かった」、「高評価だけど面白くなかった」ということが起こるのは当たり前である。そもそも自分が遊び面白かったかどうかが問題なのだから、第三者の評価など本当はどうでもいいことだと言い切ってもいい。つまり、もともと評価というものは第三者の指針に過ぎず、それを盲信すること自体が間違っているのだ(レビューの存在価値がないとまでは言わないが)。

 では、なぜ低評価のほうは信頼ができるかといえば、これは前述のように、低評価でも問題ないからだろう。

低評価だからつまらないわけじゃあないし、低評価だからつまらないものもある

reviewHUU3.jpg
時にはスクリーンショットを見たままのゲームもあるが……

 低評価のゲームというものは細かな違いはあれども、
  • 高評価のゲームを求めている人からすれば必要ないものであり、
  • クソゲーだのと呼んでバカにして笑う人もおり、
  • なおかつ、ひどいものはゲームとしての体裁もとれていない場合があり、
  • となれば時間を割いてわざわざやる必要もない
わけである。そのため、低評価なゲームはそのままでもほとんどの人に問題なく、わざわざプレイして評価が見直されることもほとんどない。

 よって、低評価自体が人を遠ざけるし、たいへん好みに合致していようとも世間の否定の流れに反発することも難しいし、そもそも反発する必要を感じないかもしれない。そのため、評価は動きにくいのだ。

 これをやや乱暴にまとめると、“評価が高い作品は皆が遊ぶので検証されやすく、評価の低い作品は単に検証されにくいだけ”というわけだ。多様な意見が集まれば評価が動きやすいのは当然なわけで、となれば高評価はブレが大きくなりやすく、信頼がならないというのもわかる。

 もっとも、「低い点数は信頼できる」というのも確認すれば崩れてしまう脆い存在なわけである。それは信頼というか、単に「箱の中の猫が死んでいようといまいと開けないのだから知ったことか」という乱暴な話に見える。それならば、レビューとの関係を今一度考えてみるべきだと思うのだが、さてどうか。
このエントリーをはてなブックマークに追加
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。