対戦ゲームを遊ぶために必要なものとは

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事の発端

○ ゲームにおいて「勝つこと」を目指して欲しい理由 - 部屋とボードゲームと私と酒と泪と男と女
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 先日Twitterで上記記事について語っている知人の方がおり、何気なく僕も拝見させてもらったのだが、これがなかなか共感を持てる内容であった。もともとはボードゲームの話なのだが、まァ、僕もビデオゲームのCatanはプレイしているし、この記事において問題提起されている話は競技全般において言えることである。

 さて、ではその内容が何かと言えば、題の通り「ゲームにおいて勝つことを目指して欲しい」というものであった。勝利を目指すことを放棄してしまえばゲームを楽しめなくなってしまうので、それはやめて欲しい、と。しかし、筆者の方はそういった考え方の押し付けを極端に避けたがっており、プレイヤーの考え方は千差万別であり、決して必ずしも従って欲しいというわけではないとも強調している。そして、〆の言葉は至極ありきたりなものとなっているわけだ。

 まぁ、いろいろ書いたけど、結局のところ、一緒にボドゲしてくるだけでありがたいんですけどねw

 僕がこの記事に共感を持ったのは、同じく勝ちを目指すことを放棄したプレイヤーのお陰でゲームが盛り下がってしまう経験をしたことがあるからだ。これはボードゲームだけに限らず、それこそ幼少期のころに体験した鬼ごっこやスポーツから、今におけるマルチプレイ対戦ゲームにおいても同じことである。

 それだけなら大した話ではないのだが、こうして他者の体験を客観的に見て、なぜこういったことが起こるのかがより詳しくわかったのだ。特に、マルチプレイ対戦ゲームの人口が多くなければならない理由が理解できた。それをまとめてみよう。

なぜ対戦ゲームは崩壊するのか?

 そもそも、勝利を目指さないプレイヤーが登場するといかにして対戦ゲームは崩壊するのか? 一対一の三本勝負じゃんけんを例にして考えてみたい。

 例えば、片方のプレイヤーがずっとパーを出し続けたらどうなるか? これはまさに勝負にならず、相手は何も考えずに三度チョキを出し続ければいいだろう。ところが、じゃんけんの楽しみとは相手が何の手を出すか探ることにある。その部分がなくなってしまえば、もはやゲームとしては成立しないわけだ。

 これは捨てゲーをする格ゲーでも、無茶苦茶に交渉をするCatanであろうとも同じことである。互いに睨み合って勝負をするというゲームである以上、そこを放棄すればその時点で試合は終了となる。

 ではなぜそんなゲームの破壊行為を行うのかといえば、これはプレイヤーの意識が違うからであろう。勝利ということに喜びを感じなければそもそもそれを目指さないであろうし、あるいは勝利を目指していても勝てない状況になるとやる気が失われる可能性がある。もしくは、嫌がらせやそもそも勝つ気がないという意味で試合を放棄するのかもしれない。

 さて、誰かが試合を放棄する問題を解決するには如何にすればいいか。まずはルールにおいての問題を見て行きたい。

 勝利があまり魅力的でないゲームというのは数多くあり、基本的に賭けにしなければ自己満足の領域になるのだろう。そのため賞金マッチにすることが解決の一つであるが、それはここでは置いておくことにする。

 他には、勝利そのものを栄光的に飾りたてる、つまり一筋縄では勝てないものにすることがある。じゃんけんで勝っても嬉しくないが、将棋で歴戦の相手に勝てれば嬉しいように、ある程度複雑なルールにおいて腕を利用して戦った際は素直に喜べるものだ。これこそが競技における勝利の喜びというものだろう。

 続いて、勝てない状況になり試合を放棄してしまう場合であるが、これはルールの不備が問題であろう。序盤で大差がついてしまうようなゲームであったり、あるいは頭を使って設定したのか疑わしい対戦ゲームも世の中に存在するわけで、これをうまく作れば問題はかなり軽減されるであろう。

 そんなわけでとにかく良いルールがあれば対戦はしやすいのである。勝利することが魅力的であり、脱落者が出にくいものであれば、皆が勝負を目指しつつ楽しめるだろう。

 しかし、嫌がらせやそもそも勝つ気がないという理由で試合を放棄するプレイヤーにはどう対応すればいいのだろうか? これは「互いのプレイヤーは勝利を目指す」というルールの原則を破っているので、もはや矯正も強制もできないだろう。結局のところ、完璧な対戦ゲームのルールというものは存在しないのである。

 そもそも対戦というものは競技である。その競技というものは、「一定のルールに従い優劣を決めること」なのだ。要は、すべてのプレイヤーがルールに従ってきちんと優劣を決めようとしなければ、その時点で成立しなくなるのである。これこそが対戦ゲームにおける決定的な落とし穴だろう。

 やはり、プレイヤー同士がある程度団結して共通の意識を持たねば対戦は成立しないのである。なぜゲームが崩壊するのかと総じて言えば、それはルールの不備などが直接的な原因なのではなく、プレイヤー同士の意識における相違が原因なのだ。言ってしまえば、穴だらけのクソルールであっても、プレイヤー同士がそこを避けようと思えば対戦が成立することだってあるのだ。

 こうなると話は面倒なことになってくる。スポーツマンシップのような共通理念があれば一応の解決をみることもできるが、しかしゲームにおけるプレイヤーの姿勢というものは他人が口を挟めるようなものではないのだ。コミュニケーションツールとして対戦ゲームを遊ぼうと、競技として勝利を目指し対戦ゲームを遊ぼうと、誰にも良し悪しを決められないのである。仮に口を挟んでしまえば、対戦が成り立たなくなるのだろう。

唯一の解決策

 では、このプレイヤーが持つ考えの違いを如何に解決するか。これがうまく出来ているゲームこそ、世界的に人気を博すような作品になるのだろう。

 繰り返すようになるが、やはりスポーツマンシップのような考え方を全員が持てればいいのだろう。これに関しては思うところがあり、ゲームだからと訳のわからないことを言って、好き勝手に途中でゲームを抜けたり試合を無茶苦茶にする人というのがあまりに多い。プレイヤーがゲームそのものを作っているということを意識して欲しいわけだが、しかし言うのが余計であるというのが現状だろう。

 となると、同じような考えを持つ人を見つけるべきなのだろう。そういう意味では、やはり人口が多い対戦ゲームというのは魅力的である。今までなんとなく、プレイヤー総数が多いゲームこそが良いゲームだと言われることが多くように感じていたが、今まで記したような意味では確かに頭数が多いことは素晴らしい魅力だ。

 人口が多く多様なプレイヤーに恵まれれば、ひたすらに勝利を目指すこともできるようになるし、あるいは適当にやる仲間も見つかるだろう。逆に、人口が少なく様々なプレイヤーがいなければ、とにかく場を取り持つことに熱心にならねばゲームが成り立たないというわけだ。プレイヤーの思想は多様性に富んでいるわけで、これは前者のほうがやりやすいわけだろう。それどころか、後者ではとりもつことが精一杯でゲームを楽しめないかもしれない。

 とにかくプレイ人口が多ければプレイヤー層による住み分けができるわけだが、しかしそんなのは極々一部の作品だけである。多くの対戦ゲームにおいては、人が少ないのが当たり前なのだ。

 そういった場合、共通の理念を持つプレイヤーを見つけねばなるまい。誰かがリーダーとなって人を呼ぶのだとか、あるいは似たような人同士で集まる必要がある。いや、そもそも競技というものは似た考えを持つ人同士が集まって行われるものなので、この似たもの同士で集まるというほうが普通の考えなのか。

 とにかく、円滑に対戦を行う抜本的な解決策というものはない。各々のプレイヤーに温度差が生じてしまう以上、歩み寄りきれないものなのだ。あるとすれば、同じような考えを持った人だけで集まるということなのだろう。

 将棋やチェスが優れているのは、ルールの完成度も当たり前だが、やはり人に広く知られているということが強みなのであろう。対戦ゲームというのは、対戦する人が多くいなければ素晴らしいものとはいえない。これを今一度よく念頭に置いておきたいものである。
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