ゲームレビューの点数評価がよくわからない

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なんで点数をつけるんだ

 身近なものであればファミ通のクロスレビューや、あるいはインターネット上で集計されたメタスコアなど、ゲームの評価が点数で表されることは多い。これらを指針としてゲームを購入している方も多数いると思われるのだが、個人的にはこの点数表記が納得がいかないのである。何がどう腑に落ちないかと言うと、この点数が何を指し示しているか今ひとつわからないのだ。

 そういった点数評価、あるいはお勧め度や星における段階評価はゲームに限らず、映画などでも行われることがあるだろう。しかし、書評において点数評価をしているというのはあまり見たことがないわけで、点数評価が万能であると考えられているわけではなさそうだ。それなのになぜ、ゲームはこうした点数で評価されるのだろうか? 不思議でたまらない。

 今回の記事はその点数評価について考えてみたい。果たして妥当な理由というのは見つかるだろうか。

点数評価に多くある問題

 とはいえ、一つわかっていることがある。とりあえず、ゲーム雑誌において点数評価が利用されるのは、ページの都合が一つの理由なのだろう。雑誌では多くのソフトをレビューしなければならない場合が多く、一つの作品について何ページも裂いている場合ではない。そんな余裕があるのであれば、その作品の紹介ページを増やすことになるだろう。

 そんなわけで身も蓋もない答えが一つ出てしまったが、しかしスペース的な問題がある雑誌ならまだしも、いくらでも書けるWebでのレビューサイトでも点数評価があるのはどういうことなのか。

 おそらく、点数評価というものが見てわかりやすいから使うのだろう。長々と文章を書くというのは面倒な上、更に長いものを読む人というのは珍しいはずだ。このサイトもこうして冗長なものばかり書いているが、果たしてきちんと読んでくれている人は何名いるのかという話である。

 しかし、本当に点数評価というものは短くわかりやすいのだろうか? 確かに100点満点などでつけられていれば明確なように思えるが、例えば同じ60点のゲームが2つ並んでいた場合、これはまったくもって同じものであると言えるのか。間違いなくそれは違うだろう。

 同じ点数のゲームだとしても、方向性や内容は必ず違うわけである。満点の名作が2つあったとしても、そのジャンルは別かもしれないし、そもそもどういう意味で満点かは誰にもわからない。万人向けという意味なのか、それともニッチ向けだが出来が素晴らしいのかということは不明だ。

 その上、点数から相対評価か絶対評価かもわからないことが多い。相対評価で満点だとすればそれはかなり素晴らしいことであるが、しかし絶対評価であるとしたのならば、意外と大したことがないかもしれないだろう。更に、絶対評価の中でも、到達度評価(公開された基準が用意されておりそこから評価が算出されるもの)ならいいが、認定評価(基準がなく評価をつけるもの)では困るとしか言いようがない。

 到達度評価を採用しているサイトもいくつか見たことはあるのだが、しかし結局はその点数の理由付けがフィーリングであったりして混乱させられることしきり。とはいえこれには致し方ない点もあり、ゲームの評価は個人の感性や趣味が色濃く出るものなのである。結局、きちんと段階を決めるということはやはり不可能であろう。

 しかも、ビデオゲームの技術は日進月歩なわけで、相対評価をせねばならない時が必ず来るわけである。例を挙げれば、新技術を駆使して新しい体験を与えたゲームは素晴らしいと評価されるはずだが、これを二十年後に見たとしたらどうなるか。おそらくそのころには古い技術となっており、満点はあげられないだろう。つまり、期間が限定されない場合は評価というものは難しいのである。

 そうなると、どこからどこまでを相対として見るかという問題がある。例えば発売日前後の一年や一週間にしてみるとしよう。これを期間が終わったあとにまとめて発表するならまだしも、大抵のゲーム評価というものは発売後一定期間に発表されるものだ。となると、一年間ではおそらくは初めに出たゲームの点数評価が不利になる(後発のために安易な満点は出せない)。一週間だとすると、駄作なのに高評価が出てしまう可能性があるだろう。これもまた問題だ。

 もしくは、ビデオゲーム有史以来からソフトが出た時点までと考えれば非常に期間が明確になるものの、これにはやはり無理がある。すべてのビデオゲームを文脈通りにきちんと見た人など多くいるはずはなく、その上ですべてを相対評価するということは難しすぎるのだ。ましてや、考えが移り変わる人間が行うとなれば……。

 これだけ見てみると、点数評価がとてもではないがわかりやすいといえないことがわかるはずだ。まず、相対評価なのか絶対評価なのか考えねばならず、後者なら到達度評価なのか認定評価なのかを知る必要があるが、わかったとしてもそれが確実ではない。更に基準が明確だとしても相対的な評価をされていることは間違いないわけで、その点数一個を見て理解することは出来ない。しかし、点数評価を満遍なく見たとしても、それがどういった期間で考慮されて行われているか確かめねばならないのである。トドメに、書き手がすべて同一だったとしても、その人の考えが次第に変わっていかないという保障はないわけだ。こんなもののどこがわかりやすいかという話であろう。

 そして、ここで身も蓋もないことを言ってしまうが、そもそも評論というものは「物事に対し論理的な説明をし評価を決める」という行為であって、抽象的な点数をつけることとは真逆に位置する行為なのである。つまり、点数評価するという行為は「わかりやすいという錯覚をさせるための行為」なのであって、決してわかりやすいわけではないのだ。

以下蛇足

 では、なぜ錯覚を与えるような行為が当たり前に行われているのかといえば、これは謎である。どこかで点数評価をする先駆者のような存在が現れ、それが慣例として尾を引いているのだろうか。あるいは、僕がマヌケなだけで、画期的な点数評価の方法があるのやもしれぬ。このあたり、事情を良く知っている方は教えていただけると幸いである。

 さて、ここからはあくまで個人的な憶測になるが、一つ理由として思い当たるものがある。それは、ゲームが娯楽だからではないかというものだ。要は、点数評価が読者にゲームを正しく評価しようと結果に発したものではないのは当たり前で、“なんとなくわからせる”ことを必要としているのではないか。

 人々は多くの娯楽を用いて日々を過ごすが、それを真剣に行う人は多くないであろう。嫌になったらやめるだとか、すぐに他に乗り換えるというのは至極当たり前である。そして、適当に遊ぶものには誰もまともに取り合おうとしないだろう。ゲームも同じく、真剣に選んで遊ぶということはせず、おおまかな評価だけを知って手にとって、なあなあで楽しめればいい。もしかしたら、そういう人が多く、そのために大雑把すぎる点数評価というものが採用されているのではないだろうか。

 そもそも、多くの場合は点数表記だけでなく文章での評論も同時掲載されている場合が多いため、きちんと理解したければそれを読めば済む話なのだろう。そして、こと娯楽においてはそれを必ずしも必要とする人ばかりではないわけで、見てもわからないけどわかった気がする点数評価も両方揃えておけば問題がないということか。これなら筋が通っているようにも思える。

 とはいえ、やはり不満は残る。理に適っているにしても、点数評価がある以上、論がない感覚の評価を人に与えることになるわけである。これは必ずいざこざを産むであろうし、点数を感覚で決めてしまう以上、書き手が我田引水しやすくなるわけだ。例えば、評論でボロクソに書いておいても、ゲーム会社との関係を考えて満点にするなんてことも起こる可能性があるだろう(逆も然り)。

 評価というものは、読者が読み考えて、そこではじめて意味を成すのだ。よくわからないのによくわかった印象を与える点数評価というものは、どうしても危険が多いように思えてしまう。それなのに、なぜ点数評価なんてものがあるのだろうか。やはりよくわからない。
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コメント

点数はわかりやすいよ 10点のゲームの方が9点のゲームより面白かったということだし
同じ6点同士なら同じぐらいの面白さ、ということがわかる
でもレビュアーが固定されてない場合は基準が曖昧だからよくわからないものになるね

>点数はわかりやすいよ 10点のゲームの方が9点のゲームより面白かったということだし
それはない

それはない、とかじゃなくてそういう感じでつけるのが点数だから
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