正しいレビューという幻想

よくある話によくある話題

 街中でふと既視感に襲われることがある。体験したことがないはずなのにどこか記憶に残っているような、そんなことは誰にでもあることだろう。

 先日も、街中で素敵な女性を見た際に既視感を覚えた。あの人は知らないはずだが、どこかで会ったことがあるような、しかし名前も何時頃会ったのかも思い出せない。もしかしたらどこかの芸能人かアイドルか、もしくは単なる脳みその混乱であろう。

 などと考えながら先へと進もうとすると、なんとその女性に声をかけられた。ひどく驚いたのだが、どうも話を聞いてみると昔会ったことがある知人らしい。実はデジャビュでなく、本当の記憶だったのだ。僕はさっぱり思い出せなかったので適当に話を会わせて乗り切ったのだが、いやはや我ながら自分の脳みそに不安を感じてしまう。

 そんな脳みそポンコツ野郎がネットを見ていると、これまた見たことがあるような記事を発見した。しかしこれもまた既視感などではなく、単純に忘れていただけであった。それが、Game*Sparkに掲載されていた以下の記事である。

○ 「レビュアーもレビューされるべき」ゲーム開発者が提言 - Game*Spark
http://gs.inside-games.jp/news/266/26643.html

 一口に言えば定期的に出る話題なのだが、ゲームレビュアーに不誠実な人間がいるので彼らもまたレビューされるべきであるという意見だ。これはどこでも良く言われることだろう。

 もっとも、この行為が実現されることはまずないはずである。なぜならば、レビュアーに対するレビューを実行すると、レビュアーに対するレビュアーのレビューも必要になり、更に、レビュアーに対するレビュアーのレビュアーにおけるレビューが必要……と堂々巡りになってしまうからだ。

 結局、レビュアーのレビューを配置することによって、不誠実なレビューがなくなることはないだろう。この問題の具体的な病床は、レビューの情報が妥当か否か見極めにくいという点だからだ。

 そもそも、一番最初のレビュアーが妥当であることがわかれば、レビュアーに対するレビューなんて不要であるはずである。問題は情報の真偽や妥当性の確立であり、それは更にレビューをつけることによって解決する性質のものではない。

 そんなわけで、第一次レビュアーがきちんと書くことが出来れば良いという話になりがちなのだが、しかしそれは難しい。それどころか、僕としてはやはり読者側の意識問題ではないかと考えてしまうのだ。

既にあるレビューの限界

 言うまでもなく、無茶苦茶なレビューやそもそもゲームを遊んでいるのか疑わしいものというのは論外である。例を挙げれば、論理的に書かれていないものや、曖昧な印象で語られているものがまずい。いや、もっと正確に言うのであれば、それを“真に受けるのがまずい”のである。

 これは個人的な印象でしかないが、日本のネット上では「FF13は駄作」とよく語られているし、それを真に受けている人は多い。しかし、どう見てもあそこまできちんと作られたJRPGは滅多にないわけで、とてもクソとは口が裂けてもいえないのである。だというのに、FF13はダメなゲームだという印象を持っている人は多い。

 ただし、つまらないという意見は完全には間違っていなくて、重要な部分である物語は盛り上がらなくて痛いという事実もあるのだ。しかし、話自体は投げやりで作ったわけでなくきちんと考えて練られているわけで、これを単にダメだと評するのもまた、論外であろう。つまり、つまらないにしても何がどうダメなのかという見極めがきちんと出来るかどうかが問題なわけである。

 要は、「駄作だという噂があるから危険かもしれない」と意識を持つこと自体は何ら問題はないが、「噂があるからじゃあ駄作だ」と思い込むことが危険なのだ。そうなってしまうから、そもそも信憑性のない話やどうしようもないゲロをかけたクソ未満のレビューが信用されることとなってしまう。やはり、読者が真に受けなければ問題はないのではないか。

 とはいえ、それを言うなら、そもそも全てのレビュアーが真剣に隔たりなく書くことをすればいい話である。だがしかし、これは難関すぎる話でもあるのだ。

 まず、ネットの適当な風評は完全にアテにならないのは言うまでもあるまい。すべての人間がどんな経歴やゲームの遊び方をしたかを把握することは不可能であるし、そもそも素性を知ることすら適わない。どう転んでもアテにならないわけだ。これには無論僕も含まれるわけで、稀に読者の方からお褒めの言葉をもらうのだが、基本的にはどうしようもないクズであることを念頭に置いていただきたい。

 続いて、雑誌社などの企業系レビュアーにおいても、不安は残る。彼らはゲーム開発会社と必ず繋がりがあるわけで、レビューにおいて書けない部分や書かなくてはならない部分、あるいはそもそも書くことの方向性が固定されることだってあるわけだろう。その上、どのように書くかは書き手次第としか言えまい。

 あるいは、メタクリティックのように、レビュー点数の平均値を取るようなサイトであれば、評価が妥当かどうかということはわかる。しかし、それはあくまでも平均的な話でしかないのが問題である。平均は母数が多くあって慣らしがされるからこそ、信頼に値するのだ。こうなると、そもそも見ている母数が少ない作品は正当な評価を受けるとは言いにくいだろうし、評価が極端な作品は曖昧な形になってしまう。

 また、極々少数のニッチにしかウケない作品は、どの場においてもあまり日の目を見ることがない。「メタスコアが1点だったからダメなゲームだろうな」と思い込んでしまうことは「噂でクソゲーだったからダメなんだろうな」と思い込むことと大差はないだろう。結局はプレイヤーの資質や趣味によってゲームが楽しいか否か決まるわけで、きちんとそこを掘らなければわからないのである。それこそ、低評価なゲームに最高の作品があるのかもしれないだろう。

 どこを見ても、一面としては正しいにしても完璧に妥当だというものはない。つまり、本当に正しいレビューというのは幻想でしかない。そして、それがあると信じ込もうとするから、レビューが正当ではないなんていう意見が出てきてしまうのではないだろうか。

最後に無茶苦茶を言ってしまう

 こうなってしまうと、やはり読者が騙されないように読むということが現実的であることにしか思えない。どれも穴があることは間違いないわけで、見極める力というのは必要だ。そして、下らないレビューに対し読者から軽蔑の視線を送ることによって、それを排除する自浄効果を狙えるのではないか。

 ……と書いたのはいいが、これはこれで夢物語でしかないのが笑える。

 これまた個人的な感性の話でしかないのだが、本当にゲームレビューを真っ当に読んでる人がたくさんいるかどうかという話である。僕もヘタクソで小規模なりにきちんと書こうとしているものの、訳のわからなかったり文脈を無視した文句をいただくことがあるため、そもそも読まれているのか不安になる(これがまずメールだけで貰うから弱る)。

 だいたい、ゲームの品定めをしようとした場合、人々はどうするのか? おそらく、メーカーやシリーズのブランドで購入を決めるとか、Mk2とか2chとかファミ通だとかの知っている場所で適当に話を聞いて、なんとなく面白そうだったら買うという人が大半なのではないか。娯楽に対して真面目な態度を取る人なんて、それこそ少数派なのではないか。

 だからこそ、強引なレビューや無茶苦茶なレビューは存在するのではないか。もしクソレビューが鼻で笑われて相手にされないのであったら、そんなものは淘汰されるはずだ。結局のところ、読む側が真剣に見極めをしなければ、飛ばし記事や提灯記事を書く人もいなくなりませんよ、という至極当たり前の話になるのではなかろうか。
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