ゲームの定義から見るクソゲー

ゲームとしての要素からゲームを見る

 世に跳梁跋扈する駄作ゲームたち。時には人を傷つけ、場合によってはそれが笑われて人々に喜びを与えたり、あるいは人の目につくことなくワゴンという墓場で眠り続けている。

 そんなどうしようもない作品郡は、何がどうしてダメなのか。今回はそれを考えてみることにする。

 さて、如何に駄作が駄作である理由を追うかであるが、今回は「ゲームの定義を考え、そこから外れているものがダメだ」ということにする。ゲームというものがどのような性質を持っているか考え、そしてそこから外れている作品が駄作、あるいはクソゲーということにすれば、これは素直にわかりやすいだろう。例えてみれば、何らかの検品のようなもので、いくつかあるチェックをこなせていれば良し、こなせていなければダメというものである。そして、その確認する部分をゲームの定義とするのである。

 もっとも、これには落とし穴もある。規定さえこなしていれば問題がないというのは、定義そのものが間違っていた場合に破綻してしまうだろう。無論、前提には細心の注意を払って書いていくのだが、これに関しては明確な正解がないために違った部分に足を突っ込む可能性が十分にありうる。そのため、読み手にも同じ注意をしてもらいたい。また、クソゲーという言葉は定義が曖昧すぎるため、必ずしも納得がいくという話にはならない可能性は十二分にあることも念頭に置いていただきたい。

クソゲー四大要素

 まずゲームの定義だが、大きくわけで4つに分類されると思われる。まず、隔離された場があるということ。続いて、公正な規則・秩序(ルール)があるということ。そして、目的があるということ。最後に、緊張・不確実性があるということである。

 それぞれに対する説明は各項目において説明していくが、おおよそこんな所であろう。あとは、楽しみのために行われるという要素も付け加えたかったが、それを入れると例えば教材用のゲームソフトは間違いなく駄作になってしまうが、それはクソゲーなのではなくジャンルが違うだけである。よって、今回は妥当と思われる部分だけを見ることにした。

1.隔離された場がある
 ゲームであろうと競技であろうとも、これらが行われる際は日常の延長上に配置されるわけではない。

 例えば、単なる棒が二本だけ落ちていても遊びにはならないが、それを二人が手にとってチャンバラをし始めればそこが戦いの場となるのである。おままごとで砂場を自宅と見立てるように、スポーツにスタジアムが用意されるように、ゲームにはその世界があって当然なのだ。

 ビデオゲームにおける隔離された場というのは、まさに見た目・音響で作られたモニタの中にある世界であろう。同時に、コントローラーによる操作をもって、プレイヤーを現実から引き離すことを行っている。平たく言ってしまえば、雰囲気作りだろう。

 これを破るゲームというと、それらの要素がないか極端に弱いかである。これは確かに駄作における一つの要素とはいえそうだ。音楽が一切ない作品は味気ないし、効果音のないゲームというのも苦痛が伴う可能性が高い。何より見た目というのは重要で、ひどければひどいほど駄作であるというのがわかりやすい。

 逆に良いパターンで考えると、現実と見間違うような3Dグラフィックがある作品や、有名イラストレーターがデザインを担当した作品は良いものになりやすいだろう。しかし、音楽や見た目だけいい作品というのはゲームである意味合いが薄いため、これが必須条件というわけでもないのだろう。

2.公正な規則・秩序(ルール)がある
 ゲームにはルールが必要である。白と黒の石があったとしても何にもならないが、そこにルールを加えることによって囲碁となるわけだ。

 これをビデオゲームで考えると、RPGであればどうすれば戦闘に勝利できるのか、あるいはキャラクターが強くなるのかといった所だろうか。また、アクションであればいかにこなせばクリアとなるかなどがルールであろう。対戦ゲームであれば、駆け引き要素もここに含まれる。

 同時に、ルールは強引すぎてはならない。明確で、遵守したくなるものでなければならない理由は簡単で、例えば、Aボタンを押したらジャンプしたりしなかったりするアクションゲームはプレイヤーを混乱させることにしかならないだろうし、クリア条件がわかりにくかったり、難易度やバランスが無茶苦茶である場合はプレイヤーがその話に乗ることができないわけだ。

 クソゲーで考えてみると、確かにルールが弱い・不明瞭な作品というは良くあるだろう。当たり判定がクソでかい上に敵も固くて難しいシューティングゲームであるとか、バランスが崩れきっているアクションはクソゲーの代名詞である。また、対戦ゲームではルール調整が間違っていると、すぐに対戦が成り立たなくなるために公正な秩序が必要となってくるわけだ。そして、バグによってルールの秩序が破壊されるのも大きな問題だろう。

3.目的がある
 これは2に付随する要素だが、ゲームには目的が無いと困る。対戦ゲームであれば勝敗を決めなければならないし、ひとり用のゲームであったとしても、終えることや記録の更新が目的とならねばならない。

 無論、玩具のように自由な要素だけ置いておいてもかまわないが、その場合は自主的に目的を作りやすくすべきである。単なる白い紙は、哲学や音楽、あるいは数学だけでなく文学をも産み出す土壌であり確かに有用だが、それは白紙そのものの手柄とはいえず、むしろ書き手が素晴らしいということになるだろう。ゲームとしてもまた同じく、あまりに自由すぎると素晴らしいかどうかは使い手次第になってしまう。つまり、目的まで配置されてはじめてゲームなのだ。

 同時に、その目的は魅力的でなければいけない。ハイスコアを目指すシューティングゲームであればそれを皆がやっていて点数を叩き出すことが栄誉にならねば楽しみづらいだろうし、RPGやアクションであればクリアすること自体に価値(ストーリーを見られるとか、達成感があるだとか)が無くてはならない。とにかくプレイすることに、楽しいと思わせる目的がなくてはならないのだ。

 言うまでもなく、目的がショボいビデオゲームはたくさんあるだろう。シナリオが恐ろしくつまらない長編RPGなど拷問の如しである。あるいは、じゃんけんのような単純なものは小学生でも勝って嬉しくはならず、賭けるものや付随する何かが無ければまずしないだろう。それを延々とやらされるだけになると、クソゲーといえるものになる可能性が出てくる。

4.緊張・不確実性がある
 更にビデオゲームに必要なのは緊張と不確実性である。詳しく言えば、常にクリアできるようなものは楽しくないということだ。当たり前の話だろう。

 アクションゲームでは腕によってクリアできるか否かが違ってくるし、修練によってクリアの確実性を上げていく遊びである。そうやって緊張と不確実性を乗り越えることによって楽しくなるのである。

 また、多くのゲームに大なり小なり存在するランダム性も緊張や不確実性を生む。それこそ公正な籤引きなどは100%運になるが、これは確実に当たりを引けないから緊張をするのだろう。当然、あまりにも運ばかりに任されるとどうせ運次第なのだと緊張を失ってしまう為、このさじ加減も重要である。

 この手の要素を一切無視しているゲームはこれまたクソゲーである可能性が非常に高い。運で進行する度合いが高いゲームというと、ファミコン版の『ボコスカウォーズ』を思い出すが、なるほどダメだと言われることはわからなくもない。また、パーティーゲームにおいては「運ゲー」と呼ばれる実力の一切関係ない要素があり、これはプレイヤーによっては蛇蝎の如く嫌われるし、その気持ちは痛いほどわかる。もっとも、効果的に使えば「Catan」のようにランダム性も緊張を生む良いスパイスになる。

大雑把すぎるまとめ

 以上の要素を端的にまとめると、以下のようなものになる。

○ 雰囲気が悪い
○ ルールが滅茶苦茶
○ 目指したくなる目的がない
○ 緊張しない

 こうして一まとめにするとかなりアッサリとしすぎたものになるが、確かに駄作の要素は十分に揃っているだろう。雰囲気が悪く、ルールも狂っていて、ウンコな目標しかなく、挙句に緊張しないゲームなど誰もやりたくないという話である。

 ところで、この要素を見ていて一つ思い浮かべた作品があった。それは、この駄作要素すべてを兼ね揃えているであろう『Block Fight!』のことだ。

○ Xbox360 IndieGamesで石を拾う 02 【Block Fight!!】
http://hakotossdm.blog42.fc2.com/blog-entry-767.html

 360インディーズゲームで配信されているこの作品だが、画面は真っ白で音楽も効果音もなく雰囲気もクソもないし、ルールは訳がわからないし(そもそもあるのか?)、目的など皆無だし、緊張どころか暇すぎてゲロを吐きたくなるような有様である。まさに駄作の優等生という感じで、間違いなくクソゲーだと言える。

 他にも色々なウンコゲーを思い浮かべてみると、確かにどれも欠けていたりいるように思える。少し気にかかるのは、定義が抽象的すぎる点かもしれない。どうも当てはめて考えようとすれば強引に出来なくもないわけで、このあたりもう少し煮詰めたほうがいいだろう。

 余談になるが、この考えを換言すれば、これらの要素のどれかでもいいから突出して長所にすることによって面白い作品になるのではないだろうか。雰囲気作りだけがうまい作品だとか、ルールだけが素晴らしいものだとか、ついついやりたくなる目的がある作品とか、遊ぶとドキドキするような作品。良作の傾向としてどれもあり得る話だ。

 「ビデオゲームが面白いか否かを見るにはどういう要素で構成されているかを見る」というのは、あながち間違っていないのかもしれない。この記事ではまだまだやり口が甘すぎるのだが、うまくやれば良ゲー(クソゲー)のガイドラインなんてものも作れるのかもしれない。
このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント

非公開コメント