ゲームの新しいゲームプレイ、それが「実績」 02

 さて、実績がどのようなものか知ってもらえただろう。では、この実績というものは何が面白いのかについて考えていこう。


 今までのゲームはやりつくしたところで、良くも悪くも自分だけのことであった。何かのRPGを100%攻略しても、何かのアクションゲームをすごく難しいやり方で攻略しても、自ら人に言って回らねば自己満足であった。そして、言って回るようなものでもなかった。

 インターネットの発達で、面白いゲームプレイをしている人達の活動が目につくようになっていった。しかし、それは本人たちが公表しているからであり、そういったことを自身でしようと思わねば、自分の残した記録は片隅に埋もれていくだけであったのだ。
 根本的な部分でゲームプレイの結果というものは、特にものすごいものでない限り誰にも知られず証明できず、消え去ってしまうものがほとんどだったといえるだろう。

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・実績のすごさ
 実績はその状況を変えてくれる。Xbox360のゲームをプレイしたら、記録・公表を代行してくれるのである。しかも、それが証拠にもなってくれるのだ。おかげで、確実にゲームプレイにかけた時間や労力が人に伝わっていく。たとえ中途半端な結果であろうとも、それが記録されればゲームをプレイした証拠が残る。

 ビデオゲームを遊ぶことで何が最も恐ろしいか。それは、遊びを一人でやるとなると、単なる自己満足に回帰してしまう部分である。どんなことであれ、労力と時間を使ったことは事実なのだ。それを記録として残せれば、自己満足や無駄にはならない。なぜなら前回語ったように、その記録を見て競ったり、そもそも記録を集めて楽しむことができるからだ。
 そうなれば、もはやただの自己満足であった記録が、他人との比較に使われる重要な記録へと変化したのである。

 そして、実績を人が見て競ったり比べたり集めて楽しむことは、ゲームを遊ぶこと自体を遊びにしたといえるだろう。ゲームをコミュニケーションの一手段として用いたり、あるいは逆に、コミュニケーションを利用してゲームをさらに楽しく遊ぶというのは、忘れられがちではあるが昔からある楽しみ方である。それをうまく機能させるのが、実績なのだ。

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 ただ、ゲームプレイの実績が証明されたところで、それでもゲームを遊ぶことに無意味だと感じる人もいるだろう。それでも、実績は重要なものである。

 確かに、実績はあくまでXbox360ゲーマー社会における、ゲームプレイの証明を行っているだけだ。それでも一つのコミュニティにおける労力の証明というのは、なかなか素晴らしいことだと僕は考えている。
 どんな実績や高名を持つ人であろうとも、ひとたびその社会を外れれば、その社会の中で持っていた価値は等しく無価値であろう。外部との接触がない無人島で一人になってしまえば、偉人であろうと異人であろうと、無人島の生態系にほおりこまれた一つの生物である。あるいは、宇宙空間で一人さまようことになってしまえば、地上最強の生物であろうと男塾塾長であろうと、宇宙のどこにでもある一つの塵である。

 つまり、価値というものは社会から離れて見てはならないのだ。ゲーマーとしてすごいけど実社会においてはその技能が何も役立たない、なんて言い方は、内閣総理大臣も大統領も宇宙に生身でほおり出されればスペースデブリと化す、という論法と同じなのである。どちらも、所属している枠の中では十分な価値があり、確かな実績が存在しているのだ。



 ただし、実績にも注意点はいくつかある。
 実績がプレイヤーのすべてを表現しているわけではないところが重要だ。チートや談合による実績解除によって算出される嘘がある。そして、実績システムでは計り知れないゲームの腕や功績というものがあるだろう。たとえば、対戦ゲームの全国大会で優勝しても、さすがに実績ではそれを証明することはできない。

 また、実績に踊らされても逆効果である。実績はあくまで開発会社が決めているので、プレイヤーにして欲しいことを直接ぶつけてくるのだ。それだけに囚われては、杓子定規な遊び方しかできない。そしてそれは、やりこみというものに対する意欲も失ってしまうだろう。自由な遊び方はプレイヤーの持つ最大の権力であるから、うまい具合に開発者を出し抜く遊び方も考えていったほうがより楽しめるだろう。


 欠点もあるが、それでも、どのプレイヤーにも平等で確実な評価をしてくれる実績は素晴らしいものだ。うまく付き合っていくといいだろう。
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